真夜中の洗濯機

長期記憶にするための覚え書き

サクラダ・オサラバダ

大阪に引っ越してきてはじめての春を迎える。ここにも桜が咲くんだな、という発見がそこかしこにあった。

散ってしまうかなと思いきや意外と長く咲いていて、夜桜を見ながら歩いて帰るささやかな楽しみができた。関東と関西ではビミョーに開花の時期が違うのも、はじめて自分の目で確認した。

 

人のことを『いいなぁ』と羨んで憧れてばかりの人生だ。昔からずっと。今もそう。

おしゃれな文章を書いたり写真を撮れる人に憧れる。エンタメを器用にたくさん摂取して、すこやかに過ごせる人にも憧れる。本を読むのが早い(速い)人にも憧れる。自分がそれとは程遠い人間であるということにここ数年で気づいてしまったので余計にそう思う。わたしは一切おしゃれな人間でも器用な人間でもない。

好きなフォロワーのツイートは数時間おきにホーム画面に飛んでチェックするし、人のいいね欄も実は結構見ている。ただ、自分のいいね欄だけは不思議なことに全アカウントほとんど見ない。こんなに毎日いいねしまくってるのに何でなのかは不明。

誰かみたいになりたい、自分じゃないなにかになりたい、という願望が強いのかもしれない。

『忘れたくない』という執着と『憧れの存在のようになりたい』という願望に押しつぶされそうになるとき、たまに己が怖くなる。

でも、コンサート前の準備がほぼ祈りに近いことに気づいたり、夜桜を眺めながらたまに写真を撮ってひとりでニヤニヤしたり、昼休みの喫煙所で飲むものがホットコーヒーのMからアイスコーヒーのLに変わったことで季節の移ろいを感じたり、卵が安く買えるとうれしかったりする自分を少しでも好きになりたくて、祈るように文章を書いている節がある。

最近、祈ってばっかりだ。

コンサート前の準備はマジでほぼ祈りに近い。ネイルしたりパックしたりヘアオイル多めに塗ったり必要なものを事前に揃えたり、会場内のマナーについて調べものをしたり。こんなん祈りでしかないでしょ。ひとつひとつの所作に、まるで弾丸のような念を込めている。コンサート会場は念の集合場所だと思う。そういう場所を愛していて、愛していることを歪ながらに文章にできている自分のことも、少しずつでいいから好きになりたい。

 

こいちゃんが先日のスペースで『花束みたいな恋をした』について言及していたのがとても興味深くて忘れられない。わたしは通算5回くらい観ているのだけど、刺さらないものに対してはっきり『刺さらない』と言及することもまた誠実さのひとつであるよなぁと痛感した。『花束みたいな恋をした』が刺さらなかった人の話ももっと聞いてみたいなと思わせてくれる、そんな時間だった。

そういう夜は何度あってもいい。何度でもあってほしい。