今日くらいは「車の運転ができない!」って話をさせてもらえませんか? | オモコロ https://t.co/j6njf8Rq6L
— すみ (@__0227ml) 2022年2月15日
車の運転シーンが印象的な映画を立て続けに観たものの、自分は一切運転したいと思わない理由がこの記事に詰まっていた。
免許は持っているが車の運転ができない。できないしこの先する気もない。と言うと十中八九『いや、必要に迫られてやらなきゃいけない日がくるよ』と返されるが、どうしてリスクのある行動をしなきゃいけないのか理解に苦しむ。車を運転するくらいなら、多少苦しくても歩いたりチャリ乗ったり電車乗ったりしてその場をやり過ごしたい。同じ思いの人がたくさんいることに救われた。そもそも仮免の試験で『止まれ』の標識をガン無視して走行しようとした女は路上に出したら絶対ダメだと思うんだよ。
車社会のクソ田舎を脱出したのも車を運転したくないからだ。これからも絶対に運転はしないぞ。そもそも駐車の仕方もバックの仕方も忘れたので運転したとて…という話なのです。
車の運転シーンや車中の会話シーンが印象的な映画、『ちょっと思い出しただけ』を観た。
映画館の暗闇の中で観ると、一緒に車に乗って大事な話を共有しているような気分になれて良い。『ドライブ・マイ・カー』を観たときも同じようなことを考えた。
人との交わりのなかで生まれるささやかな幸福の数々。側から見たらなんてことない行為でも当人たちにとっては紛れもなく幸せで、それが積み重なっていくさまが鮮やかに記録されていて、まぶしくて直視できないくらいだった。
あと、ちょっと思い出したいのはなにも恋愛のことだけではないよなと。きのうも書いたとおり最近はあんまり恋愛を特別視していない。特別視すると途端にこじれて狂っていくので。
むしろわたしが思い出したいのは恋愛ではなく友達とのことばかり。友達と遊んだり飲んだり、ベロベロになって終電を逃し夜の巷を徘徊したり、朝8時から磯丸水産でいちごサワーを飲んで上野公園で不忍池をぼんやり眺めるだけの時間を過ごしたり、漫喫のフラットシートで雑に寝たり、カラオケ屋の固いソファーで寝落ちしたり、雪が降りしきるなか新宿の純喫茶で延々話したり、そんなことを思い出してああまた行きたいな、また会いたいな、と楽しい記憶に浸る。仲のいい友達がみんな関東やそれぞれの地元にいて、自分とは少し離れたところで暮らしているからこそ、ある意味執着しているのかもしれない。
恋愛やそれ未満のものについてはヘドロみたいな思い出の方が圧倒的に多いし、別れたあとに元彼に好意的な気持ちを抱いたことは一度も無い。別に幸せに生きていて欲しいとも思ったことが無い。誕生日も綺麗さっぱり忘れた。ものすごくのめり込めなかった理由、もしかしてそこにあるのかもな、と思い少しだけ悲しくなった。美しい恋愛の思い出がひとつもねえ。
だって元彼の悪口、別れて数年経っててもまだスラスラ言えますもん。ありすぎて、友達に『まだあんの?』って言われるくらいある。
そのくせ好きだった音楽とかは長いこと覚えていて、未だに聴いてビミョーな気持ちになったりはする。具体例を挙げると、キリンジ『エイリアンズ』がダントツでヤバい思い出の権化。もちろんいい曲だけど元気な時じゃないと聴けなくなった。
こういう余計なノイズが乗るのが嫌だから、音楽の趣味がガッツリ一致する人とは付き合いたくない。
そう、完全一致と部分一致の話。これもついでにちょっと思い出した。昔からそうでなかなか治らないんだけど、好きな相手に自分との完全一致をどうしても求めてしまう。
目の前に2択を並べられたとしたら、わたしと同じほうを選び取ってほしい。そうでないと少しイラッとする。
これは友達にはそこまで感じなくて、恋人相手に顕著に出る思想なのですげえタチが悪い。恋愛だけがすべてじゃないと言っておきながら恋人を特別視している自分にも嫌気が差す。完全一致じゃなくて部分一致だからこそおもしろいじゃん、と思うにはどうしたらいいんでしょうね。
というかこの思想、マジでモラハラと紙一重というかほぼモラハラなので一刻も早くやめたい。相手が潰れてしまう。元彼のこともさんざんモラハラだなんだとこき下ろしてきたものの、自分が生粋のモラハラ気質だからこそレーダーが敏感に反応するってのは少なからずあるんでしょうね。ゴジラvsモスラ状態(?)
はやく解脱してえ。焚き火の音を聞きながら寝る。