先日、生まれてはじめて親知らずを抜いた。
抜く瞬間はどうってことなかったのに、その後の痛みたるや。
しばらく『歯が痛い』と大騒ぎし、ひとしきり騒いだあとで『あ、歯が痛いんじゃなくて歯の跡地が痛いんじゃん』ということに改めて気づかされた。でも『歯が痛い』のほうが表現としてキャッチーなので、依然として『歯が痛い』と言い続けている。
わたしの親知らずは4本全部きれいに生えそろっており、そのうちの下2本の上に変な歯肉が乗っかっていてもうだめぽ(死語)ギリギリ状態になっていた。で、今回は限界突破しそうな片方1本を抜いた。もう1本もいずれ抜かなければならないのだけど、しばらくは抜きたくない。
あの痛みをもう一回体験しないとならないのかと思うとゾッとする。
生えているときは気にもしなかったのに、抜けて痛みが出てはじめて存在を意識しはじめる。
居なくなってはじめて、居たことを思い出す。
抜いたとき、歯医者さんが『抜いた歯見ますか?これです。歯の上に悪いお肉が乗っかってて、それもキレイに取れたので良かったです』と抜けたての歯、だった塊を見せてくれた。
悪いお肉、という表現が生々しくて、妙に艶があって気持ち悪くていいな、と呑気に思った。
ぷにぷに電気みたいじゃん、とも。
悪い子になるために夜の公園にでも行きたかったのだが、信じられないほど明るく『解散!』と言われてしまったので、直帰以外の選択肢がなくなった。 pic.twitter.com/8mpCs37aYx
— すみ (@__0227ml) 2021年5月28日
『いなくなるのって消えることじゃないですよ。いなくなるのって、いないってことがずっと続くことです。いなくなる前よりずっと傍にいるんです。』
— すみ (@__0227ml) 2021年5月28日
カルテットのこの台詞を思い出しながら観ていた。 #赤い公園
居なくなるのは、居ないってことがずっと続くこと。居なくなる事実と同じくらい、その寸前までこんなに楽しいライブを観ずに生きてきてしまったのか…というショックが大きかった。この日は。
居なくなる前よりずっと傍にいて、ヒリヒリして苦しい。
あまりにも明るくて鮮やかで、真っ赤な傷がまだ癒えないくらい素晴らしいライブだった。
ちゃんと居るなあ、当たり前だけど、とこの曲を聴きながらぼんやり思った。ライブが終わったあと、耳鳴りがしばらく続いた。
居ないってことは、居るってことなんだよな。
— すみ (@__0227ml) 2021年6月8日
『大豆田とわ子と三人の元夫』を観ているときも、同じ言葉が頭を巡った。
居なくなってしまった親友の記憶を、その親友を好きだった元夫と分け合いながら生きる。側から見たら奇妙な光景かもしれない。でも、居ないという事実とずっと傍にいるという温もりを分け合って生きていける人が自分以外にも居るなら、それはすごく素敵なことなんじゃなかろうか。
居なくなったときの寂しさは、居ないという事実がずっと続くことの絶望と、ずっと傍にいてくれることに対する歓びとイコールなんかな、と、答えの出ない問いをぐるぐる巡らせては脳のキャパを無駄に圧迫させている。そんな日々です。
まだ歯は普通に痛いです。居ない苦しみをいま一番痛感させてくれる存在こと、歯。
さっき変に跡地をえぐってしまった気がして、怖くて口が開けられません。
助けてください。