真夜中の洗濯機

長期記憶にするための覚え書き

なにがあっても生活はつづく

精神がダメになると、決まって起きる現象がある。

皿が一切洗えない。

うちには皿が3枚しかないので、いまは皿というよりかタッパーがシンクに溜まっている状態。タッパーはめっちゃある。10個くらいある。

洗うんだよ。明日洗う。

でも今日はもう無理だ。

 

あらゆる不摂生によってボロボロになった身体に『推しの結婚』という事実が突如としてぶつけられ、あまりの衝撃に窒息しかけている。

いやー、久しぶりに味わいましたね、この感覚。身体の隅々まで喪失感が満ち満ちている。喪失感が満ち満ちているってなんかヘンテコな字面だけれど、もうこう表現するしかない。今は。

実に『嫁が視える』くだりぶりですよ。これ。ちなみにわたしはふたりが並んでいる超最高な写真をiPhoneのロック画面にしていて、どちらも結婚してしまった(あえてこう書く。いまのわたしはこう書くことしかできないから)事実にただ打ちひしがれている。

心にぽっかり穴が空いたというよりも、もはやわたしが穴になっている。ニワトリが先か卵が先かみたいな?

ずっと何言ってんですかね。

 

『ずっと変わらないでいて欲しい』と願うことのグロさたるや。推しの結婚ないし大きめの環境の変化というものに対峙すると、自然と己の深淵を覗かざるを得なくなる。ので、正直マジしんどい。

自分と同じ世界を生きるひと(実在する人物)を推してもうすぐ10年になるけれど、『消費』してはいけないな、と毎度毎度念じているのに、実際のところ結構消費してしまっているのに自分のことながら辟易している。

推しは生きていて、歳を重ねるごとに考えも変わっていて、それは人間誰しもに起こる当たり前のことなのに、どうしてこんなにも置いていかれているような気持ちになってしまうのか。

お人形さんを好きでいるわけじゃねえんだぞ、と自分で自分に言い聞かせている。効いているのかはわからない。

 

推しの結婚がしんどい云々というか、一番しんどいのは推しの結婚によって自分のグロい価値観にスポットライトが当たることだと思った。日々わざと目を向けないようにして生きている部分が浮き彫りになるだけで、精神はそこそこグチャグチャになんのよ。

グロい価値観を持つ人々と日々闘ってるつもりでいて、実は自分も同等レベルのグロい価値観を少なからず持って生きている、っていう改めての気づきがあった一日でしたね。激烈バッド入ったわ。聖人君子になりたくても、どうやったって性根が腐ってるから無理っぽい。
たぶん寝りゃこのモヤモヤは治る。けれどもどうしたって今がしんどい。

 

背負うものが大きすぎやしないか?あまりにも理想の偶像として出来すぎているが故に、これから大なり小なり苦しい思いをするのではないか?

その苦しい思いすらも、お相手とだったら乗り越えられる、という算段の上での今回の行動なんだろうか。

でも彼はきっと誰も置いていかないんだろう。どうしても過度な期待をしてしまうけれども、それは彼が今まで話してくれたこと、示してくれたことに対してわたしが抱いた『絶対的な信頼』の証なんだと思う。背負わせすぎたくない、と思う反面、わたし自身が彼にいろいろなことを委ねまくっていて、ある意味背負わせまくっている。こんな残酷なことがあるかよ。

 

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と、ここまでが発表直後に血眼で書いた文章(もはや臓物の切り出しみたいなもん)でした。

なにがあっても生活はつづくし、日々の忙しなさで気持ちもすっかり落ち着いたかと思いきや、まだちょっとアレですね。

もちろん、とってもおめでたいことです。推しの幸せはオタクの幸せ。

もう少ししたら、腹の底から響くデカい声で『おめでとう』を言える日が来る…はず…なので、今の正直な気持ちもまとめてここに埋葬しておこうと思った。

心がグチャグチャでも生活はつづく。