平成最後の日である。
なんか年越しムードみたいになってるけど、改元に立ち会うのが人生で初めてなので、ぶっちゃけどういう顔をして改元と接していいのか全く分からない。
分からないので、映画を観ることにした。
「愛がなんだ」。
あらすじを見た瞬間ピンときたし、この映画を観て平成のさまざまな記憶と決別しよう、と思った。
(※この先若干ネタバレしますのでGWに見たい方などはご注意ください…。)
結果。
観た後、しばらく席から立ち上がれずに、頭の中でこれまでの記憶と自分語りがずっとぐるぐるぐるぐる渦巻いた。
話は主に、主人公・テルちゃんがマモちゃんという男に不毛な片思いをし続けていることを軸に進む。
テルちゃんは日を追うごとにマモちゃん一辺倒になり、仕事を辞め(クビになった)、ますますマモちゃんにのめり込む。
その様子を見ながら私が主に思い出したのは2年〜3年くらい前、マッチングアプリに興じていた時期。
決別したかった記憶は、まさにこの時期のものである。
それまで一切男性と関わってこなかった人生を、アプリひとつで脱してみたかった。
タップするたび、顔も生い立ちも知らない男性と次々に知り合った。
今までの人生においてかなり衝撃がデカかった体験であり、いま振り返るとまあまあ痛い目に遭ったりもしてきた。
(ネタになっているからいいものの、身に危険が及ばなくて良かったな〜と思う)
テルちゃんが自分に一切振り向かないマモちゃんにどんどんのめり込む様子に、昔の自分をどうしても重ねてしまった。
浮かれてふたり用の土鍋を買ってしまうシーンなんか目も当てられなかったし、吐き気すら覚えた。私も付き合ってもいねえ男性と恋人つなぎをしてひとしきりはしゃぎながら歩いたことがあったから、似てるなーって。
多分そのとき、相手の目はマモちゃんみたいに昏く死んでいたのだろうと思う。
ただ、私の視界にはその様子が一切入らなかった。恋、というか、執着というのは不思議なもので、あっという間にものごとを客観的に見られる視野を奪っていく。
手に入らないものほどキラキラ輝いているし、魅力的に見える。
マモちゃんは気まぐれに都合よくテルちゃんを呼び出し、自分の気持ちの赴くときだけ体の関係を持ち、自分の許せないラインを超えた瞬間に残酷に突き放す。
いや、本当にあるのだこんなことが。フィクションだと思い込みたいことは、案外あっけなく現実になる。
気まぐれでも十分うれしい。一瞬だけでも誰かに、性欲を満たすためだけでも求められるのは、この上なくうれしいことだ。
好きな人の体温を直に感じながら、マモちゃんの寝顔をじっと見つめるテルちゃんの幸せに満ちた笑顔に身に覚えのある人は、きっとこの映画を好きになる。
たとえ相手に好かれていないとしても、相手には別に好きな人がいたとしても、雑な扱いを受けたとしても、胸がいっぱいになるほど幸せだと思える瞬間は、確かにあるのだ。
あと、強烈な印象に残ったのがベッドシーン。
あの生々しさったらなかった。
酒飲み過ぎで結局勃たないとか超ある。「わたしってそんなに魅力ないかな」とヘコむところまでセットで。いや本当にヘコむんですよあれは。誰も責められないから余計に泥沼化する。なんでそこまでわかるの!?と見透かされているような気分になった人、多分ほかにもいるのでは。
鼻先までかぶったタオルケットの繊維と埃のにおいまで伝わってきそうなシーンで、観終わった今でも頭から一切離れない。
中途半端な行為が終わって眠りに落ちる前、マモちゃんは「顔がかっこいいわけでも、仕事ができるわけでも金持ってるわけでもないのに何で俺みたいな奴に親切にするの」とテルちゃんにこぼす。
なんと残酷なのだろうこいつは、と思った。
こんな風に気持ちを吐露するなんて、まるで「君のことは全然恋愛対象として見ていないよ!イエーイ!」と伝えるようなものじゃんか。
好きなひとにはこんなかっこ悪いところを羅列したような独白、しないだろ。
このシーンにはじまったことではなく、マモちゃんの残酷っぷりが終始ナイフのように尖っていて地獄だった。
本人に自覚がないところがまたタチ悪い。
しかもこういう人、本当に実在するもんだからさらに最悪だ。ゴロゴロいる。ゴロゴロいるぞ。マジで。
まあ、自分にもそういう一面があるのが何よりも一番タチ悪いんですが。
俺は、葉子さんが寂しいなあって思ったときに、思い出して呼び出してもらえるところにいたいんですよ。
何番目でもいいから。あっ、ナカハラいるじゃん、って。
幸せになりたいっすね。
テルちゃんの友達・葉子ちゃんと曖昧な関係を続けているナカハラ君のこのセリフで完全に呼吸が浅くなった。
(セリフの言い回しはニュアンスなので間違ってるかも)
側から見たら都合よく扱われているだけかもしれない。でも、好きな人が寂しいときに側にいられた。必要としてもらえた。その一瞬一瞬のうれしさや思い出や小さな成功体験を、心の中のブリキの缶に入れて蓄え続ける。
必要とされるタイミングは均一ではなくムラがあるので、間があいてしまってどうしても自分が寂しいときは蓄えたものを缶の中から必死に手繰り寄せて飢えをしのぐ。
その行為に慣れてしまったら、なかなか「普通の関係」には戻れない。
そして、いやそもそも普通ってなんだよ…みたいな無限ループに陥る。
ナカハラ君が度々「幸せになりたい」と口に出すのもめっっっちゃわかる…わかるよ……となった。
みなさんは深夜2時過ぎののサイゼリヤで赤ワイン(デキャンタ)をあおりながら「幸せになりたい」と呪詛を吐き続けたこと、ありますか。私はあります。
酒を飲むと無意識に「幸せになりたい」と口にしていた時期があった。地獄かよ。
あれは確実に呪いだった。
テルちゃんが抱くマモちゃんへの想いはどんどん肥大化していく。
その中でのこのセリフ。
私、マモちゃんになりたい。
どうしてだろう、私は未だに田中守ではない。
この思想、イかれてると感じる人もいると思う。
でも、好きな気持ちが焦げ付くギリギリまで煮詰まると、結果ここに行き着くのだ。
好きな人そのものになりたい。
もはやテルちゃんの気持ちは恋なんてかわいらしいものではなくなってしまっていた。執着とか、そういう表現が近しいのだと思うのだけど、ピッタリはまる言葉がイマイチうまく見つけられない。
極論、もう自我をなくして好きな人の中に取り込まれてしまいたいのだ。分かりますかこの気持ち。
テルちゃんには一貫して、「自分を大切にする感情」が欠如している。
あたしは、「好きな人」か「それ以外」になっちゃうんだよねえ。
この発言がすべてだと思う。
だからこの後、同僚の女の子に「自分のことも(それ以外なの)?」と言われても、うまく聞き取れない。
自己犠牲の塊のような行動をしていても、それを危ないとは一切感じないんだろう。
いや、感じられない。当事者になると、本当にびっくりするほどなにも分からなくなる。
だから、曖昧な関係の男に振り回されてる子に「自分のこと大切にしなよ」なんて言っても一切響かないんすよ。自覚とか自意識とかあんまりないから。日に日に薄れてちゃってっから。
誰かを好きになることってやっぱりちょっと病気めいてんのかもな、と改めて思った。
愛ってなんなんすかね。
うるせえバカヤロー、と顔を歪めながら叫ぶ岸井ゆきのさんの顔、まだ鮮明に思い出せるな。
出てくる俳優さんの演技がみなさん本当に巧みでグイグイ引き込まれてしまった。
KANA-BOON「ないものねだり」のPVを私に見させながら「俺、この子好きなの!岸井ゆきのちゃん」とドヤ顔で喋ってたあの人、元気にしているだろうか。
できればあんまり元気じゃないとうれしい。
サブカル大好き女がマッチングアプリをやると、5人に1人くらいの確率で「好きな女優は岸井ゆきの」と言う男性に遭遇してたんだけど、確かに惹かれるわ。この存在感。
すぐそばにいそうで、どこにもいなさそうな感じ。
気づけば3,000字も自分語りしてしまったけど、自分の中で固めに鍵をかけてた引き出しを強引に開けられて整理されるような、薄い紙で指を切ったヒリヒリ感がずっと続くような、そんな映画でした。
チャットモンチー「ハナノユメ」、名曲ですよね。
この作品にはまったく関係ないけど、歌詞とかよく読むとなんとなく通ずる部分あるな…と思わなくもない。
お風呂入ってさあ寝るぞとなった瞬間に「仕事終わったからご飯食べない?」と言われ急いでメイクして支度して家を出たことがある人や、
「終電で帰りたいからもう飲まないでくんない?めんどくさい」と言われたことがある人、
「家に入れるのもアレだからホテル行きたいけど、ホテル代出すのもめんどくさいんだよね」と言われたことがある人、路上の真ん中で「は?セックスしないなら帰るけど」と吐き捨てられ爆笑しながら膝から崩れ落ちたことがある人、絶対観に行ってほしい。
観たら多分、私みたいに昔のクソみたいな記憶を織り交ぜながら自分語りしたくなるから。
観た人と外で金麦飲みながら感想大会したい。
テルちゃんとマモちゃんが飲んでた居酒屋も行きたい。
ここ本当に行きたいから近いうち行こう。
余韻の膜からなかなか抜け出せない、よい映画でした。
観てよかったなー。
思わずストロングゼロ買って帰ったもんな。ロング缶。
幸せになりてえっすね。
おわり